【設楽ダム計画とその推移】
• 設楽ダム計画の経過
(1-1) 前史
設楽ダム・寒狭川ダム(1961〜1962)
1961年7月 電源開発から設楽町に調査依頼、設楽ダム約5000万m3、発電並びに農・工業に利用という計画、調査立ち入りを認めている。(6月愛知県からの通知もなされたものとみられる → 町は異議なしと解答)
1961年11月 建設省からの地質調査申し入れ、布里ダム(寒狭川ダム9300万m3)
1962年6月 愛知県から電源開発からの申し入れについて、新城市・鳳来町・設楽町へ通知、東三河工業開発中央専門調査委員会答申「東三河工業開発計画の概要―適地・産業関連施設整備マスタープランの第一次構想」
鳳来町西部地区は、水没家屋を出さないこと、地主との話し合い解決後でなければ竹木の伐採をさせない、の2点を認めれば、立ち入りに反対しないという回答を出した。ダム反対同盟を発足させ、町を挙げての反対運動を起こし、調査をさせなかった。鳳来町の寒狭川筋のダム計画は沙汰やみとなった。
設楽町では、61年の電発申し入れに対して、原田町長が電発に対して調査を認めてしまい、地主も立ち入り・竹木伐採を認めてしまった。翌年になって、水没予定地区にあたる松戸・大名倉・川向の住民136名がダム建設反対連絡協議会を結成し、全員連署による、土地立ち入り・測量反対の陳情書を設楽町長に出し、県知事にも意見書を出した(1962年7月)。しかし、この時は、設楽ダム計画も立ち消えとなった。一説に、この付近の地質がきわめて劣悪で、アーチ式ダムの建設は無理であることがボーリング調査の結果わかったからだという。
(1-2) 設楽ダム計画の発端
愛知県から鳳来町に寒狭川・布里ダムの調査実施要請(1971年7月〜1972年6月)
総貯留容量3億3000万m3の巨大ダムで、その内訳は洪水調節容量5000万m3(3000m3/sec)、および新規利水容量2億6800万m3、堆砂容量1200万m3である(愛知県『寒狭川ダム調査について』1971年9月4日)。上記文書中に触れられている、設楽ダム計画(総貯留容量1億2500万m3)には、発電容量が含まれている(名倉の大久保に上池を造る揚水発電計画が含まれていた)。建設省としては、設楽ダムについては、治水上の効果が期待できないため、先ず治水上の立場を優先的に考え、寒狭川ダムの実現方向を明確化してからでないと設楽ダムの建設には協力しかねるとの意向を示している。また、寒狭川頭首工・導水路説明会が1972年に開かれている。
これに対して鳳来町・住民の的を得た取り組みによって、布里ダム計画は頓挫することとなった。(1974年1月:山村振興調査会の現地診断調査結果公表)
こうして、寒狭川(布里)ダム建設が進まないことがほぼ明確になった後に、愛知県が設楽町へ「設楽ダム調査について」申し入れたのである。(1973年11月24日)
利水と治水を目的とした多目的ダム(新規利水6m3/15m3開発、洪水調節800〜1000m3/secのカット、揚水発電は取りやめ)で、規模は総貯留容量7〜8000万m3、形式はロックフィルダムというものであった。「設楽ダムの主目的は、新規利水の開発、治水に関しては、設楽ダムのみでは豊川治水は完結しない。布里ダムが絶対必要であり、設楽ダムがその代替とは考えられないので、別途に積極的に推進する」と愛知県文書は述べている。
(1-3) 設楽町あげての反対運動
1962年に川向・大名倉・松戸の3地区により結成されていた「設楽ダム建設反対連絡協議会」は、八橋・小松・田口地区を加えて、拡充された(1974年1月7日)。翌月には、地区労も参加し、全町的規模の反対組織ができた。20日足らずのうちに、設楽町有権者5877人中5158筆(268人は無効)の署名を集約し、3月11日、設楽ダム建設反対の請願書が町議会に提出され、同じ内容の陳情書が町長に提出された。(総務委員会に付託された後、6月議会で満場一致で採択)
このほか、森林組合、農協、商工会、漁協から意見書が出された。6月定例議会は、反対決議文案を9月定例議会をめどに作成するよう総務委員会に付託した。9月25日、設楽町議会が、設楽ダム建設反対決議をおこない、10月4日、正副議長と3常任委員長が中部地建と愛知県を訪れ、決議文を手交した。
決 議
今回愛知県が豊川の洪水を防ぐため、並びに豊橋を中心とした東三河地域発展のため寒狭川上流の当地区内に多目的ダム建設の計画が示された。
設楽町議会は、ダム建設による町の将来を憂慮すると共に地域住民の反対意思を尊重し、左記理由により絶対反対を決議する。
記
• 本町人口8119人中5158人及び各種経済団体、労働団体の署名による設楽ダム建設反対請願が提出され、これを採択した当議会は、地域住民が絶対反対の意思表示をしている限り、これを重視し[ダム建設に]反対する。
• ダム建設による水没者は勿論、先祖伝来の肥沃なる森林地帯を水没させ孤立された残存住民は、生活基盤の喪失と共に部落構成を消滅させられることは、物心両面にわたり到底忍び得ない。
• 過疎対策を町政の一大方針としている当設楽町にとって、大都市大産業発展を優先させんとする設楽ダム建設計画により一町村が多大の犠牲を払い、人口流出を余儀なくされることは町の方針に逆行するものである。
• 本町は、県内及び全国的にも有数な針葉樹の人工美林地帯であり、水源のかん養と共に国土保全にとって東三河地方のカナメ的存在である。
[設楽ダムの]計画主体である国、県は人工ダムによる水資源解決策よりも、根本的な森林管理対策を考えるべきである。
5. 近年公害の続発により強く叫ばれている自然環境の保全は万人の認めるところであり、全国に[その名を]知られた県下唯一の清流について、この美しい自然環境の破壊につながるダム建設は絶対に許されざる行為である。
昭和49年9月25日
設 楽 町 議 会っl
(1-4) 国、愛知県による圧力が強まる
• 建設省が設楽ダム実施計画調査に着手
• 設楽ダム調査事務所発足
• 豊川総合用水事業着工
• 設楽ダム反対直下流協議会 発足
• 大渇水(宇連ダムが空になる)
1986 寒狭川頭首工建設同意協定 締結
1987 設楽ダム実施計画調査航空測量受け入れ協定
寒狭川導水路工事着手
• 豊川水系水資源開発計画(閣議決定)
• 大島ダム建設同意の協定書
• 設楽ダム実施計画調査に関わる立入り調査協定書調印
• 設楽ダム・ボーリング調査始まる
寒狭川頭首工本体工事着手
1995 大島ダム建設工事着手
• 設楽ダム実施計画調査の中間報告、1億m3へ拡大、立入り調査ストップ
(1-5) 河川法改正、環境アセス法制定にもかかわらずダム建設へと進む
• 寒狭川頭首工完成 河川法改正、環境影響評価法制定
1億m3棚上げ、立入り調査再開に“努力”と合意(地建・県・町)
1998 設楽町長1億m3計画を容認 豊川流域委員会発足
1999 豊川水系河川整備基本方針決定
• 大島ダム試験湛水開始
2001 3月流域委員会設楽ダム建設を提言、11月河川整備計画を決定
2002 用地調査に関する覚書調印・調査着手 3月豊川総合用水事業完成
2003 (建設段階)工事事務所に格上げ、建設推進に関する協定書(地整と町長)
• 11月環境影響評価手続き開始(方法書縦覧)
2006 フルプランの全部変更(閣議決定)、豊川水系河川整備計画一部変更
6月環境影響評価準備書の縦覧
2007 1月28日「設楽ダムの建設中止を求める会」発足
2月住民監査請求、4月訴訟提訴
8月環境影響評価手続きの終了
2008 1月 農業用水県負担問題提訴
1月 国土交通大臣設楽ダム基本計画案を提示
3月 神田愛知県知事は基本計画案に同意
8月 設楽町住民投票条例の直接請求を開始
10月末 省庁間協議を終え設楽ダム基本計画を公示
11月 補償基準の提示 住民投票条例の直接請求を町議会が否決
2009 1月 設楽町長、受け入れ表明
2月 設楽町、愛知県、中部地整の3者が協定、4月〜着工へ
9月 政権交代、国土交通大臣ダム事業見直し表明、設楽ダム検証対象になる
10月 設楽町長選挙に伊奈氏(投票条例を求める会事務局長)出るも落選
2010 6月30日 地裁判決(行政の裁量権を無限定に認める) → 控訴審へ
2011 3月11日 東日本大震災、大津波、福島第一原発の大事故
2011 7月 国土問題研究会設楽ダム調査団現地調査(地質地盤問題)
2012 12月 自公政権復活、国土強靭化の方針のもとにダム事業推進の動き
2013 4月24日 高裁判決(原告主張を捻じ曲げて控訴棄却) → 上告
2013 12月 大村愛知県知事設楽ダム建設を事実上認める
2014 3月 中部地整、事業者自身による設楽ダム検証を終える(事業続行へ)
2014 5月09日 最高裁(上告棄却決定)
【設楽ダムの建設中止を求める会の設立経過】
設楽ダム計画が実施に向けて動き始める状況となった1998年頃から、上記の「豊川を勉強する会」、「豊川を守る住民連絡会議」のほかに、ダム問題に焦点を当てた取り組みが、「設楽ダムを考える豊橋市民の会」、「設楽ダムを考える東三河の会」、「設楽ダムを考える名古屋の会」などによって始められた。
04年11月末に設楽ダム建設事業についての環境アセスメント方法書の縦覧が始まると、12月には有志が集まって、アセスメント制度や方法書についての勉強会を重ね、「住民意見書を書く会」を開いて、意見書を提出する運動を呼びかけた。
06年6月末に環境アセスメント準備書の縦覧が始まり、いよいよ設楽ダム建設問題への取り組みが緊急性を帯びてきたため、流域の市民に問題を広く知ってもらうのに効果的な取り組みをしようということで、06年7月17日に、環境アセスメント準備書についての意見書を書く会を兼ねて「設楽ダムの見直しを求める市民フォーラム」を開いた。以後、このフォーラムの取り組みは、「本音トーク」という形で主催・形式の異動はあるものの、現在まで引き継がれている。「市民フォーラム」は、流域の市民を対象に学習会やダムサイト見学会を開くなどして設楽ダム計画の見直しを訴えてきた。住民意見など聞き置くだけの環境アセスメント手続きが終了間近となり、建設に向けて本格的な動きが始まる時期を迎えて、住民意見を出す運動に取り組んだ「市民フォーラム」の運動を基盤として「設楽ダムの建設中止を求める会」を設立することとなった。